仙台市

2011年6月から、NPO法人ハーティ仙台のメンバーが中心となって、フォトボイス・グループ(仙台1)が始まりました。自らが被災しながら、“支援者”として、発災直後から東日本大震災で被災した女性たちを支援しています(PhotoVoice No. 2, III-3「社会的アクション・支援」参照)。

支援者として走り続けていた仙台1グループのメンバーにとって、自分の生活や地域の状況を写真に撮り、継続的に話し合うフォトボイス・ミーティングは、知らず知らずに(あるいは意図的に)ふたをしていた自分自身の感情に気付いたり、自分をとりまく状況を捉え直したりする場にもなりました。

このようなフォトボイスの活動を、より多くの女性たちにも届けたいと、研修や準備を重ね、有志による「フォトボイスせんだい」をたちあげ、フォトボイス・プロジェクトと協働して、2012年10月に、仙台市(仙台2)と石巻市で新たなグループを作りました。

現在は、仙台1と仙台2のグループは一つのグループとして活動をしています。

2014年1月には、フォトボイスせんだいとフォトボイス・プロジェクトの共催で、フォトボイス展と集いを開催しました。

※各メンバーのプロフィール末尾には、国立女性教育会館(NWEC)災害復興支援女性アーカイブ国立国会図書館(NDL)東日本大震災アーカイブひなぎくから検索できるフォトボイスのタイトルも記してあります。気になるタイトルがありましたら、ぜひご覧になってください。
現在、同アーカイブから検索できるフォトボイスの一覧は、こちらから確認できます。

 

【メンバーのプロフィール】

●girasol
仙台市在住。震災では、日常生活のもろさにあぜんとしました。そして本当に追い詰められた時は感情を失うことを実感しました。震災当時、家の片付けをしていたら足ががくがく震えて、自分が怖いと思ってる事を知りました。これからも、自分なりに女性支援を続けたいと思っています。

●かおりん
親の墓を流されました。少し病んでますが、この震災を風化させてはならない思いです。

●takahashi
仙台市在住、60代。28年住んで、地震で半壊になった住宅から転居しました。安定した住居は安らぎを与えてくれます。仮設住宅、借り上げ住宅に暮らす人々が一日も早く希望する住宅に入れますように。
*アーカイブ化されたフォトボイス:「いつまで続く仮設生活」(2013年)

●仙台のY
自宅マンションは半壊でした。故郷は石巻。身内や友人が被災しました。沿岸部の被災地は、回復に20年も30年もかかります。生きているうちに復興した故郷の風景を見たいです。

●まる子
60代。石巻と山元町にいきました。震災を忘れないように写真を撮りました。始めて山元町に行きました。町全体がやっと後片付けがすんだと言う印象でした。石巻は煙突から煙りが立ち上っていました。人々は少しづつ震災から立ち直りつつあることを実感しました。
*アーカイブ化されたフォトボイス:「時計の落とし物」(2013年)

●よしみ
震災後、5月から南相馬市にボランティアに行っています。 最初は臨時託児所の保育、 その後1年半は流出した写真の洗浄、 現在は依頼された家屋の草刈りや廃棄物の処理をしています。 悲しみと怒りでいっぱいの福島の方々の側にいたいとおもっています。
*アーカイブ化されたフォトボイス:「希望?」(2011年)

●H. Yamamoto
仲間のいる幸せ。震災後はとても忙しく暮らしています。家は半壊判定・・でも住めます。沿岸部に住んでいた叔母は親族の世話・・・続いています。お互い出来る事をしようと!話しています。
*アーカイブ化されたフォトボイス:「優先順位が違う」(2011年)

●M. SATO
東日本大震災のことをたくさんのかたに知っていただきたい。 語りつぐことが大事だと思っています。60代。
*アーカイブ化されたフォトボイス:「高くて気づかない」(2012年)、「新しい居住地」(2013年)

●Tamami
東北で暮らして20年余り。東北の森、自然が好きです。震災では家族が海の近くの職場で被災していろいろと不安定になりました。自分も仕事を変えました。大きな力に翻弄され、無力さを感じたこともありましたが、歩き方を変えてみたら、安心できる仲間と居場所がみつかり、勇気がわいてきました。

●MASAKO
仙台市在住、福岡県出身。自宅は半壊。震災直後から近くの一人住まいの叔母(当時88歳)の介護が始まり、翌年7月に看取りました。その間、自分に出来る事として各地の友人たちに被災地の情報を提供し支援協力を頂きましたが、今も続いています。ネットワークを大切にしながら企業の復興支援、東松島の仮設住宅でのお茶会に参加させて頂いております。

●たきこ
家族が仕事場で津波に遭いました。つらい事もありましたが、東日本大震災のことを忘れないでほしいと思っています。

●MIKA
七ヶ浜町出身、30歳代、自治体職員。震災直後は、派遣職員として県南の沿岸市町村で罹災証明書発行などの業務を担当。大切な人やモノを失った悲しみに直に触れ、自分にできることを精一杯、宮城の復興のために力を注いでいきたいと強く誓った。

●福島かずえ
仙台市若林区若林生まれ育ちの54歳。2011年8月まで仙台市議を5期20年務める。住民の自治力アップとジェンダー平等推進が住民本位の復興のカナメ、そして明日の日本をつくる…と思って、奮闘中!
*アーカイブ化されたフォトボイス:「災害対策本部のおにぎり」(2013年)

●chikako
50代。自治体嘱託職員。建物の復興はだいぶ進みましたが心の復興はまだまだのようです。女性支援の手伝いを引き続けています。
*アーカイブ化されたフォトボイス:「太陽光発電」(2011年)、「放射能が心配で・・」(2011年)

●フリージア
若いころ宮城県沖地震を経験しました。今回の地震の揺れのまっ最中に、「あの時よりまし」と思っていました。が、被害は比べ物にならないほど大きく、自分の主観の当てにならなさを知りました。フリージアは宮城県沖地震の1年前に亡くなった父の病床に何度も運んだ花。父が好きだった花です。津波で家族を亡くした人の気持ちが少しだけわかるような気がする花です。

 

◆メンバーの声◆

大切な人を、大切なものを、大切な場を、失った。

なにかしなくっちゃとおもった。

自分の感情は封じ込めてしまった。

手にした カメラで、
それぞれの思いで、さまざまな場所でシャッターを押した。

不安や期待を抱えて集まったミーティングでは、一枚一枚の写真をめぐって
仲間と泣いて、怒って、笑って、自分の大変さを語っていいんだと思えた。

そうして生まれたのが「わたしたちのフォトボイス」

違いを認め合い、共感しあい、つながれる、
そんな空間から生まれた写真と「声」。

聞こえますか?

仙台から石巻、女川、福島と宮古の仲間と一緒に、日本中へ世界へ伝えます。

私たちは忘れない。

*この声は、2014年1月に仙台で開催されたフォトボイス展&集いの際に、フォトボイスせんだいのメンバーが「撮影者たちからのメッセージ」として作成したものです。